大坂屋当主年表


大坂屋本宅方向から四ツ橋を望む 摂津名所図会

1 初代 大坂屋久左衛門 (1576 - 1668)

当主在任 1596-1661(21歳から85歳まで64年間)
戦国時代の天正4年(1576)摂津国西成郡(現在の大阪市東淀川区)に生まれる。慶長元年(1596)頃に創業。初期は備後福山大坂屋久十郎と連携して中国地方の鉱山開発により財を成す。 創業期に佐竹氏家臣牛丸の要請を受け慶長7年(1602)あるいは8年(1603)から秋田の銅山開発に着手した。佐竹氏の秋田移封は慶長7年(1602)、徳川家康による江戸開府は慶長8年(1603)である。秋田阿仁銅山はのちの宝永年間には全国一の生産量を誇り、最盛期の生産量年間360万斤は米石高で70万石に値する。
慶長8年(1603)に大坂北炭屋町(現在の大阪市中央区西心斎橋)に住居を構え、銅吹(銅の精錬業)を開始する。銅吹・南蛮吹(銅から銀を抽出する技術)は当時の世界最先端産業であった。
寛永8年(1631)頃にはすで海外貿易を行っていたと記録にある。銅山経営から銅吹、銅販売さらに海外輸出まで、開発・生産から流通・貿易に至る多角的な一貫掌握が莫大な利益を生み、久左衛門は豪商大坂屋の初代となる。大坂屋久左衛門の名称は代々世襲され、当主九代に渡り、幕末まで270年間続いた。
久左衛門は備後福山(現在の広島県福山市)とは関係が深く、縁戚である備後福山大坂屋は福山藩主水野勝成の時代に新庄本郷鉱山の開発を手がけ発展した。久左衛門の妻かるは備後福山藤井安右エ門の娘である。寛文元年(1661)久左衛門は備後福山大坂屋久十郎の長男久三郎21歳を長女寅4歳の婿養子に迎え大坂屋の後継者とした。
久左衛門は寛文8年(1668)7月15日越州敦賀にて没、92歳。墓所は大坂天王寺村(現在の大阪市天王寺区逢坂)一心寺と敦賀(現在の福井県敦賀市)善妙寺中鎮護院にある。昭和42年(1967)には三百回忌法要が営まれた。

大坂屋本宅の東側、呉服店大文字屋(現在の心斎橋大丸) 摂津名所図会

2 二代 大坂屋久左衛門(1641 - 1707)

当主在任 1661—1682(21歳から42歳まで21年間)
寛永18年(1641)生まれ、初名は久三郎。寛文元年(1661)に大坂屋の家督を相続、二代大坂屋久左衛門となる。
寛文10年(1670)に手代大坂屋七郎右衛門に秋田阿仁の三枚山の調査を命じる。同年、手代大坂屋彦兵衛が秋田阿仁の三枚山に銅鉱を発見し、秋田阿仁十一山における全山支配のきっかけとなる。阿仁銅山は後に全国最大の産出量を誇った。
阿仁の銅は米代川を下り能代港で川舟から北前船に積み替えられ、越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)でいったん陸揚げされ、その後再び舟で琵琶湖を南下して河川交通を利用して大坂屋まで運送された。反対に大坂から下りモノとして生活物資など上方の文化が秋田の富裕層に伝えられた。とくに上方特有の赤御影石は高価で珍重されたが秋田各地には石灯籠や墓石として今も文化財として遺されている。
秋田阿仁から産出される銅鉱石には多量の銀が含まれ、大坂屋では南蛮吹により銀絞りを行い、莫大な利益を得た。南蛮吹とは鉛を触媒として銅に含まれる銀を抽出する当時の最先端技術であり、大坂屋は秋田藩内の鉛山の開発権も一手に収めていることから相当量の銀を得たことがわかる。
延宝6年(1678)二代大坂屋久左衛門に銅貿易株が認可され(十六人株仲間)、幕府御用商人として住友家に次ぐ地位を得た。 <銅吹由来書>
天和2年(1682)、二代久左衛門は42歳で隠居し、初代久左衛門の末子長松に家督を譲る。二代久左衛門は大坂炭屋町にて両替商を興し、初代大坂屋久右衛門を名乗り大坂屋分家となる。宝永4年(1707)、9月10日、敦賀にて没、67歳。

3三代 大坂屋久左衛門清浚(1666 - 1715)

当主在任 1682−1715(17歳から50歳まで33年間)
寛文6年(1666)初代久左衛門が90歳の時、次男として生まれる。初名は長松。天和2年(1682)、17歳で二代久左衛門から大坂屋の家督を相続し、三代大坂屋久左衛門となる。三代久左衛門清浚の時代にはとくに秋田阿仁銅山の存在が大きかった。
秋田藩各地の鉱山には大坂屋をはじめ住友、鴻池、北国屋などにより経営されていたが、元禄10年(1697)には大坂屋が一手に独占して経営するようになった。荒廃した秋田藩の鉱山事業を建て直し、また秋田藩江戸御用邸用の資金として銀2014貫(約4万両)の貸付を行うなど、大坂屋は経営者としての実力を示した。
貞享4年(1687)、別子銅山の開発権をめぐり大坂屋と住友家の抗争が起きた。大坂屋稼業の四国の立川銅山の隣山の別子山に大坂屋は銅鉱脈を発見するが、大坂屋使用人切場長兵衛が住友家に告げ元禄4年(1691)幕府から別子の開坑認可は住友家に下りたと記録にある。これを原因とした抗争で百数十名が死亡する事件となった。 <大阪毎日新聞の記事(1940年)> 大坂屋経営の秋田阿仁銅山は元禄期には全国最大の産出を記録したが、後年の別子銅山の産出量はこれを凌駕した。
元禄後期には鉱山業に斜陽の傾向が見え、元禄14年(1701)三代久左衛門清浚は泉谷吉左衛門(住友家)と共に江戸において勘定奉行である荻原近江守重秀に銅山経営について数十箇条の意見書を提出する。
妻の万は二世久左衛門の娘。長女のなおは大坂天満の七代目尼崎又右衛門へ、次女のまさは今橋一丁目の平野屋又右衛門へ嫁ぐ。三代久左衛門清浚は正徳5年(1715)9月14日、敦賀にて没、50歳。

4四代 大坂屋甚之烝清胤(1697 - 1723)

当主在任 1715−1723(19歳から27歳まで8年間)
元禄10年(1697)生まれ、初名は甚之烝。三代久左衛門清浚の次男。正徳5年(1715)、19歳にて大坂屋四代当主となる。
当主交代の翌年、享保元年(1716)に出羽国新庄藩の永松銅山(現在の山形県最上郡)の経営を開始する。 <羽州新庄領永松銅山運上金証文>
ほかにも伊予、備中、丹波、但馬など全国各地であらたな鉱山の経営に着手したが、この時代になると鉱山埋蔵量は減少し生産効率の低下により利益は減少した。家業建て直しのため享保4年(1719)に奉公人の綱紀粛正など基本とする家政改革を行った。
四代甚之烝清胤は幕府の銀銅吹屋御用と合わせて金銀吹分御用、江戸、京、大坂の銅吹屋組頭に任じられている。また病弱であったため江戸表での職務にあたり乗馬が特別に許可されていたと記録にある。
享保8年(1723)4月5日、江戸にて病死、27歳。墓所は大坂天王寺村一心寺(現在の大阪市天王寺区逢坂)と江戸深川(現在の東京都江東区)雲光院。妻の松は京都吉文字屋当主井川善五郎の娘。

5五代 大坂屋吉之助清達(1719 - 1724)

当主在任 1723−1724(5歳から6歳まで1年間)
享保4年(1719)生まれ、四代目甚之烝清胤の長男。初名は吉之助。享保8年(1723)四代目甚之烝清胤の死去にともない吉之助清達は5歳で大坂屋の家督を相続する。
同年四代甚之烝清胤と同じく幕府の銀銅吹屋御用と合わせて金銀吹分御用、江戸、京、大坂の銅吹屋組頭に任じられている、翌年の享保9年(1724)7月17日、江戸にて病死、6歳。

6六代 大坂屋久左衛門智清(1721 - 1770)

当主在任 1724−1770(4歳から50歳まで46年間)
享保6年(1721)生まれ、四代目甚之烝清胤の次男。初名は永次郎。享保9年(1724)4歳で大坂屋の家督を相続し、同時に幕府から御用銅吹屋、江戸、京、大坂の銅吹屋組頭に任じられた。
大坂屋は元文3年(1738)から秋田藩の要請により鋳銭のための鉱山経営を再開するものの、秋田藩から利益を得られず延享2年(1745)には累積2万両の赤字を計上した。大坂屋では翌年の延享3年(1746)に四国の立川銅山を住友家に売却しているが、これは秋田での損失補填に充てられた。
大坂屋住友両家から奉行稲川八右衛門に提出した経営者交代の申請に対して、地元では反対運動が起こり、願書が江戸屋敷に送られる争議になっている。寛延元年(1748)六代久左衛門は大坂屋手代を四国に派遣し、西条藩大庄屋の説得にあたり騒動を抑えたとの記録がある。
秋田藩では幕府の統制化にある南蛮吹の技術を用いて、宝暦2年(1752)頃から銅から銀を得ることを計画していた。大坂屋史料にある、宝暦3年(1753)に作成された秋田篭山吹屋絵図は篭山(秋田県能代市二ツ井町)における南蛮絞りの吹所の設計図である。 <秋田篭山吹屋絵図> 
六代久左衛門智清は晩年には幕府廻船年寄御役を勤め、元文年間には大坂町奉行佐々木美濃守より町方惣年寄同格の待遇を受けた。寛永3年(1750)には秋田藩主佐竹右太夫より秋田御銅支配役に任じられる。明和7年(1770)7月5日没、50歳。妻の紀伊は大坂屋分家である三代大坂屋久右衛門の娘。

7七代 大坂屋久左衛門清冨(1747 - 1784)

当主在任 1770−1784(24歳から38歳まで14年間)
延享4年(1747)生まれ、六代久左衛門智清の長男。初名は長松。明和7年(1770)24歳で大坂屋の家督を相続する。
秋田藩では幕府統制下にある南蛮吹による藩財政の建て直しを密かに計画していた。南蛮吹とは鉛を触媒として銅に含まれる銀を抽出する当時世界の最先端産業であった。
秋田藩では平賀源内などを招聘して秘密裏に南蛮吹に挑戦したものの成功することができず、安永3年(1774)に江戸藩邸御用人太田伊太夫を大坂屋に派遣し協力を求めた。
同年の8月3日、七代久左衛門清冨は大坂から手代大坂屋善右衛門はじめ大坂屋の技術者7名を秋田に派遣した。善右衛門は藩内を調査し篭山(秋田県能代市二ツ井町)に銀絞所を操業させ成功を収めた。篭山銀絞所はのちに加護山精錬所となり東雲精錬所を経て古河鉱業へと繋がる。
七代久左衛門は公職として六代久左衛門智清と同じく御用銅吹屋のほか銅吹屋組頭、秋田藩御銅支配役の三役に任じられた。天明4年(1784)5月25日没、38歳。妻の志那は高津屋当主酒部勘太郎の娘。

8八代 大坂屋久左衛門鰹清(1774 - 1850)

当主在任 1784−1833(11歳から50歳まで49年間)
安永3年(1774)生まれ、初名は永蔵。天明4年(1784)11歳で大坂屋の家督を相続。
秋田篭山銀絞所の経営が順調に推移し、七代久左衛門清冨の時代には低調であった大坂における銅吹業も再開した。文化元年(1804)には篭山銀絞所を拡張し生産量の拡大を図り、結果的に大坂屋は相当の利益を得た。
大坂屋から秋田藩の直山となっていた阿仁銅山は荒廃が進み、行き詰まった藩は再度大坂屋に経営を依頼する。八代久左衛門鰹清は文化元年(1804)に手代彦兵衛、儀兵衛らを秋田に派遣して阿仁小沢山、八盛銅山、院内銀山、藤琴鉛山などの経営にあたらせた。秋田藩は大坂屋手代彦兵衛に御裃拝領と50石の扶持を付与し厚遇したと記録にある。
文化7年(1810)に秋田藩は篭山銀絞所における大坂屋の経営権を没収し、藩直営とした。
八代久左衛門は御用銅吹屋のほか幕府廻船年寄御役、秋田藩御銅支配役の公職に任じられている。天保4年(1833)、八代久左衛門鰹清は50歳で隠居し、次男佐次郎に家督を譲る。長男の熊太郎は早世、三男の武松(後の雄三郎堅信)は大坂屋新分家となる。
嘉永3年(1850)10月20日没、77歳。妻の孝は布屋当主市川伝蔵の娘。

新町九軒町、太夫の道中 摂津名所図会

9九代 大坂屋駒太郎清憲(1816 - 1867)

当主在任 1833−1867(18歳から52歳まで34年間)
文化13年(1816)生まれ、久左衛門鰹清の次男。初名は佐次郎。天保4年(1833)18歳で大坂屋の家督を継ぐ。
幕末になると幕府の政治力も不安定となり経済は沈滞した。初期には16家あった幕府御用銅吹商(十六人株仲間)は幕末には住友、大坂屋ほか6家に減少した。
大坂屋は本業以外に各地の家屋敷の売買や借家経営も行っていた。天和元年(1681)の記録では大坂屋は炭屋町においては7箇所の屋敷を所有していた。記録によると九代駒太郎清憲は幕末の嘉永期(1848〜1854)にも橘通二丁目などであらたに屋敷を購入している。
九代駒太郎清憲は幕府御用銅吹屋のほか幕府廻船年寄御役、秋田藩御銅支配役の公職に就いた。慶応3年(1867)10月14日徳川慶喜により大政奉還、九代駒太郎清憲は同年12月20日、52歳にて死去。二百年以上に渡る幕府御用商であった大坂屋は徳川幕府瓦解と共にすべての業務から撤退する。
妻なをは明治29年(1895)3月11日没、60歳。大坂屋の家系は初代久左衛門から数えて十四代目にあたる子孫の官浪辰夫に続く。九代駒太郎清憲は官浪辰夫の高祖父。

安治川河口に入港する廻船 摂津名所図会